帰り

友達が何人か出ていて、話したりする。いつも軽い話をする友達はおいておいて、話しているとよく深い話になる人がいる。今日もなんだかんだでその友達と朝まで話していて、もうすぐこの地を去るからと、私の性格について直球で話してきた。
ネガティブだよねと散々その友達に言われ、若干その気はあると思っていたけれど、よくよく考えたら、少なくとも中学生の頃くらいからネガティブの波にどっぷりつかってきたなぁと思い出した。
自分の世界を持っているよねという言葉は散々言われてきた事で、だけど小学生の頃くらいから元気さが取り得のようなところがあったから、明るいよねという言葉を言われるばかりで、ネガティブだとかそんなことを、きっとその当時の同級生たちは思いもしないだろうし、変わった毛色の動物のような存在でしか見られていなかったことは当時からぼんやりと感じてはいた。
自分の世界を持っているというものは、その友達に言わせれば、少なくとも私の場合、人と付き合う上での単なる壁であって、その裏にあるものは、「どうせ自分は人と違うんだ」という感情で埋もれた卑屈な心でしかない。事実、この間の学科の友達との飲み会で感じた、「皆とても女の子らしいけれど、自分はまるで男みたいな思考回路をしているなぁ」と思ったことをズバリと当てられたし、そういう風に考えることそのものがもう卑屈であるらしい。
映画や音楽では泣けるくせに、現実世界での私は恐ろしいほど感情がなくて、共感能力がない。高校生くらいから自分は人に対しての感情がないなぁなんてことは思っていた。旅立っていくことや死に対して、私はいつも恐ろしいほどあっさりしていた。
「友達って相手が喜ぶことをしてあげる関係でしょ」という言葉に、真っ先に奉仕を思い浮かべる私の心は貧しい。今でこそ、お互い共感したり、意見を戦わせたり、ちょっかいを出したり、けなしてみたりする友達はいるけれども、昔は単なる感情の捌け口でしかない部分も多かったと思う。人間関係を求めて、嫌というほどそれに傷つき疲れた私には、自分の殻にこもることでしか自分を守れなかったし、また人から喜ぶことをしてもらった記憶があまりない。だから求めるばかりだった。
物事は割合なんでも長く続けてきたほうだけれど、これに飽き性が入ってきたら、壊れやすいかもね、と言われた。これは友達の分析するところで、実際そういう人を見てきたかららしい。
ちなみに友達に受けてみろと言われ、携帯のサイトからやってみた共感力のテストでは16点満点中6点、平均10点に対してかなり低い結果となった。。。(友達は15点)