いつも

ご縁のある場所に出掛けられたりすることは当たり前のようであり、不思議なことのようであり。
駅1つ2つ分くらいをいく度か歩いてみせる。都会に住んでからの脚力は意外と強い。ずっと移動しているからお腹はずっと減りっぱなし。
端から見たら不思議な内容の会話が、私が本当に聞いてみたかったことで、想念というもののこと、ぼんやりとしていてすぐには言葉に出来ないけれど、そんなものほどなんだか大事なことのように感じる。

物質的な物事が大事だということは承知してはいるけれど、それだけでは物足りなくて。
今日までに思い出しては考えていたことの一つに、母親の着眼点は今の私には精神的な部分が感じられない、表層的な体裁のように響いていたのだということ。
もちろん親としての責任や心配をしてくれていることには間違いはないのだろうし、私が当然のものとして受け止めていることの大半は親からの愛情表現であることに相違はないのだと思う。それが欲しくとももらえない人がいることも分かっている。
物質的に恵まれず、それを満たすことを幸せとし頑張ってきた世代の価値観と、精神的空虚を感じそれを満たすことを求める世代の、ジェネレーションギャップか、物事に対して何故そうなるのかを知り納得したがる私自身の性質ゆえか。
話が通じないと思ったら早々に会話をあきらめてしまう私。なんでも背負いこみ過ぎるゆえの苦労を減らしたいのだったら、もう少し説明上手になったほうが楽になると人は言う。たいていの人は自分を理解しないというのならば、少しはそれを説明してみると、後々楽かもね、と。
一見関連性の無いような物事でも、その一部分各々がパズルの組み合わせのように上手くはまっていくような感覚。論理的な物事を重視するような、そんな人との会話では話がとぶと言われ、その物事に含まれている大量の情報やその分析を説明するのはなかなか時間も足りないし、聞くほうも大変。
そういえば少し前に、あなたは説明が上手く無いからどんどん写真を撮りなさいと言われたけれど、そういうことなのだろうか。