映画

の作りを考えたときに、アメリカなどの映画、特にアクションなどでなくドラマと言われる部類になるものは、たいてい誰かの心の中の言葉から始まることが多いような気がする(私の数少ない映画を見た感想であるけれど)。日本のものは、そういう始まりのものもあるけれど、ただただ流れていくものが多い。起承転結ははっきりしているけれど。フランス映画は起承転結を区別するのが難しいくらい淡々としている。
英語圏の映画になぜそういう心の中の言葉から始まることが多いのかということを考えたときに、それは言語の中でかならず主語が出てくることに関連するのだろうと思った。日本は主語の省きは非常に多いし、だから日本語詞を英語に訳すことはかなり難しいと思う。
言語の中に秘められたそういった思想が映画といった世界にまで影響を及ぼすと思ったら、これは非常に興味深い問題だ。