ライブ

を見ながら、彼らの感受性というのはどこからやってくるのだろうかとぼんやりと考えていた。何に心を振るわせ、何をもって創作意欲となるのか、感情のほとばしりはどこからやってくるのか。
どうも一流のもの、小説やら絵画やら映画やら音楽やらに触れなさいという話は、芸術家とかだけでなく、ごくごく普通のサラリーマンにも言えることで(実際に某有名コンサルティング会社に言われた)、そこらへんは業界なんて関係ないらしい。なんでも遊びが必要だ。
そういった人間の感情を何らかの遊びの形で昇華する人たちに憧れた私だけれど、普通にOLなんてしている。多少の日々の不満やら何やらあっても今の日常が永遠に続くかのごとく、ごくごく平凡に暮らしている。違いは何だろうか?頭を使うことをしようとしなかった、頭の中に汗することを。
決められたことをごくごく常識的に判断して、わからなかったら相談する。それで上手いこと世の中は廻る。
けれどもきっと、芸術家的な仕事であっても人間関係なしではやっていけなくて、それすらも拒絶するのならば、奄美大島で極貧の中絵を書き続けた画家のようにでもなるしかないのだろうか(名前が出てこない・・・なんとか一村って名前だった気がするが)。芸術家にある程度の孤独は必要なようではあるけれど(そういえばハリウッド辺りのものすごい人は人里離れたものすんんんんごい田舎に住んでいるらしいし)。
なんだかんだ言っても、おそらく人間というのはそう変わりがなくて、感情の持て余しの行き着く方向が、消費に向かうか生産に向かうか、そういうことの違いが大きいのかもしれない。
ただ生産に向かうにせよ、その一流と呼ばれる生産物は独りよがりのように見えても、普遍的な事象を捉えているからこその一流なのだから、ますますわけがわからない。どうやら別方向に行き過ぎることはないようで、かならず一周して戻ってくるかなんらかの形で、上手いことバランスが取れているらしい。