周囲

は自分の鏡であるということと、楽しく感じることが大事なのだと言うことを心の中に留めようと思うようになってから、イライラする必要が本当にないことをだんだん思うようになってきた。周囲にそういうことがあってもそのイライラに周波数を合わせないことを訓練することなのだと。
それでも人のマイナスの感情はじわじわと染みてくるなぁと思ったりする。ちくちくと痛める思いは本当に自分の感情なのか相手の思いなのか。
自分が傷つくことは相手をも傷つけることになる。
それを言われた時は初めての言葉に面食らった。
私自身が感情も何も織り交ぜず悪意のある意図も何も無く、ただ私のほうが知っているというだけで指導という形を取った。私が伝えるべきだと思ったことをただ淡々とやって欲しいということでその理由と具体的な表現まで伝えた。その伝えた相手はその内容について知らないのも十分に分かっているから、ただ素直にやってくれればいい、それだけのつもりで。
けれど相手からしてみれば、元々あったフォーマットにのっとってやっただけのことであり、自分は言われたことをやっただけであるから自分の責任の範疇でないという思いがあったのだろうと思う。前任者の出来に由来しているのは私も重々承知しているので本人に責があるとは露程も思っていない。
相手から発された言葉は、自分が十分にそのことで傷ついているという思いだった。
その言葉を一般常識で解釈しようと思えばよくあるパターンで一蹴も出来る。仕事としてやっているのだから至極当たり前のことだよ、と。その後に続くお説教も、どうして一般常識がそういう認識になるのかも。
相手がなぜそういう形なのかも分からないでもない。責任が限定された仕事をしてきているらしいから、指示がないとしづらいパターンなのかもしれない。ましてや私が今回指示したことは誰も教えられる人がいなくて伝えていないから、混乱するのも当然のことではある。
本人としては自分の中の様々な感情の混乱をある程度抑えたつもりなのだろう。その後解放したのではないかとおぼしき欠片が見えたとき、そういう受け取り方をする人もいるのだなと思った。と、同時にその感情をそのままストレートに受け止めそうな自分に対して、いい意味で相手との感情の距離を置く必要がある、とも別の部分で思った。
自分の例を言ってしまえば、同様の指導があった時に上司からねちねちと言われ続けて来たし、その上司はおそらくもっと嫌な形で指導を受けて来たのだろう。だからそれしきのことでと言うことも出来る。けれどそれを当てはめることは愚かしいことでしかない。自分と他人は異なり、環境も違うからだ。
ただ混じりっけなしのことに対して、そういう受け取り方をされたという経験は、もしかしたら同様の経験を自分自身が相手にしているということでもあるのかもしれない。
自分が傷ついたこと、その発言者のこと、色々頭の中をよぎった。そのことと自分の中の折り合いがまだつけられていないこと。
白黒つけたがる私以上にグレーをまったくもって好まない今回の相手についても、きっと何かしら今までいた環境の中で思うことがあってそうなのかもしれないということも思う。
そしてそのこだわりはまた自分にも言える部分なのかもしれない。
そういえば、家族にあまり褒められた経験がないなぁ、なんてことを思い出す。祖父母に勉強のこととかそれくらいだっけか。