求めた

アドバイスは自分でも少し分かっていたことでもあるけれど、言葉にしてもらうとすっきりするし、自分では気付かなかったこともある。メモとして内容をば綴る。
ここ最近のすっきりとしない気分のうち、論理ばかりの世界、物質的な快楽のようなものへのすがりが大きいなと思っていた。それが影響しているのかどうかまではわからないけれど、頭で考えすぎる部分がまた強く出ていた様子。ともするとどうしても頭の中に過去の色んな出来事や知識で溢れ出しそうになる自分は頭を空っぽにする時間が必要の模様。
実は言いたい事が言えてないよねとは最近たまに言われるけれど、それよりもずっと根深いところで言うこと自体を封印している様子だと。それを思い起こすとしたら、おそらく自分が思いつくままに話す事が大体の人が理解できずその辺りでずっともやもやを抱えているのかもしれないということ(どうも情報のアンテナが敏感で、また早いよう)
自分が自分であるということをまるっと受け入れてもらった感覚が本当に少なくて、もしかしたら自分に妙に厳しいとかそういうのは、礼節を重んじたいという自分の好きずきの価値観だけでなく、頑張らなければ愛してもらえないかもしれないという条件付けの愛情にずっとずっと実はひきずられているのかもしれない。強い劣等感もまたもしかしたらそういう部分に起因するのかも。
能力がたとえなくても愛は変わらないということ。日本は本来母性が強いと言われる社会だけれども、自分の中を振り返ってみた時に出てくるのは父性的な愛のような気がする。しかしそれにずっと自分自身が泣いているのかもしれない。
ふがいない弱い自分をちゃんと愛せたら、人に対してももっと許せるようになるよ、と。ちゃんと人を癒せる力をそなえているのだから。
友人にはそろそろ母親との関係の解決方法を見つけて行かないと、この数年で出来ないと多分一生無理だねとのこと。
昔色々と言われて沢山傷ついたことを思い出して今年は随分と辟易していたけれど、確かにそれを乗り越えて自分の傷を次世代には残さない事がずっと昔から感じていた課題でもある。
相手への変化を期待する事はもちろんだけれど、理解を求めることもいらないし、ただそうだと認めるだけ。
母親の強烈なキャラクターにいつも縮こまるか思いっきり防御をすることでしか対応出来なくて、それに加え1つ1つを真剣に受け止めてしまう性格。受け流してもいいんだよ、と今年は教えてもらう事何回か。
こうやって少しずつまた自分を変化させていくんだろうか。