自分

の心の中に巣食うネガティブな部分の根本を観ないと、たまに襲って来る孤独や無力感に支配されたままのような気がする。
インナーチャイルドに目を向けてそれを癒すというアドバイスを受けてから、また昔のことを思い出そうとしている。
小さかった頃のもう1人の自分というものにはまだ巡り会えていないけれど、自分にとって支援してくれる環境ではなかった、そんな思いが浮かんできたりする。
願望のある程度は叶っているし、ぱっと見た目もそうだろう。
けれど自分が好きなことや挑戦してみたいことを口にしても、所詮は否定されるだけだから話したくない、だから相談なんて出来るわけもない、そういうふうに心がいじけてしまっている。
それは現在進行形。
母は私や兄が実家に帰ってきても機嫌が悪くて無口だと少し前に怒りながら言ったけれど、人の好みにいちいちジャッジメントし、否定してばかりだということに気付いていないのかしら。
年代毎の流行や好みもあるから一緒に好きになれとは言わないけれど、ただ私が好きな音楽たちみんなを真っ向から否定なんてしてほしくはなかった。ロックを聴くのは不良だと言われながら、けれどやっぱり今でも愛され続けている自分らの世代と大した差は無いと気付いて欲しかった。
私が喜怒哀楽を表現しているところに水を差すようなことはしないで欲しかった。「あんたが悪いんでしょ」と突き放したり、皮肉めいた聴き方だったり。そうではなくてただシンプルに話を聴いて欲しかったなぁと思う。
精神的な支配が強くて、そこから逸脱したかった。けれどレールからはずれることは怖かった。本当は自由なほうが良いし、そうでないと無理なのに。
人から認めてもらいたい、愛してもらいたいと思う反面、ものすごくそれに対して恐怖を抱いている部分もあって、それは愛=束縛の図式の価値観を自分の中で作ってしまっているからだと思われる。
愛とは人やもの自身が本来の姿として健やかに在るよう願い、助けて、包み込む、そういう姿であろうものなのに。
私自身の思いをもっと大事に汲み取っていきたい。私自身が快適に生きられるよう大事にして。
まだもう少し深く深く観察していこう。