学びたい

ことは沢山あって、本屋や図書館のコーナーを巡ればどのジャンルも面白そう。
最近はとにかく見聞を広めたい欲が強い。
時間は有限だけれど、本はすごく沢山あって、一生の間にどこまで読めるのだろうかと思うと、本当は生き方そのものすべてを大切に過ごさねばならないのだろう。
知りたいことと同時に、自分の感じていることが何なのかをもっと知りたいということと、将来の展望・計画立てと行動をしないとという気持ちがあり、各々の方向性に引っ張られて、すでに勝手に心の中で疲れている時がある。時間がなければ余計に。
そういう時に、公園でひなたぼっこをしながら本を読むと少し落ち着くのだ。

砂の魚

砂の魚

今、読書が日本人を救う―鈴木健二の「読書のすすめ」

今、読書が日本人を救う―鈴木健二の「読書のすすめ」

私は文字の習得が異様に早かった。幼稚園に上がる前に兄弟の名前の字の一部をチラシの裏に書いて練習をしていたくらい。幼稚園の頃から絵本の朗読をしていたし、漢字をはじめとした国語の授業やテストであまり苦労したことがない。
その習得の早さの一因として好奇心旺盛な末っ子だったからだと思っていたけれど、読書量も大きく影響するようで、そういえば現代文国語を特に勉強せずとも得意だったと言っていた大学時代の友人も本はかなり読むと言っていた。そして音楽好きでもあった彼女は言葉というものをすごく好んでいた。
歴史が得意なのも読書のおかげで、さらに言えば高い百科事典を所有してくれていた両親のおかげ(もっともこの作戦に見事にひっかかったのは私やせいぜい姉くらいの模様)
こんなことを思ったのは、とある人のブログに読書の効果と必要性を自身やお子さんの体験で語られていて、それに私も自分の体験とともに納得したから。
そして小学生の頃の算数の時間で先生が、基礎的な国語力がなかったら文章題の意図を読み込めず算数も解けないと言っていたし、そういった諸々の基礎的積み重ねが、働き出すと明らかに必要だと実感するから(特に事務処理の部分)
人の話を聞くだとタイミングや機嫌次第によっては上手く受け止めきれないこともあるけれど、本だと自分のペースで自分の経験したことのように思える。軽やかに書かれているエッセイなどが意外に自分にはない価値観を運んで来てくれる。それがおもしろいのだ。