のように何かしらの余裕を持って挑めるのは、それが本当の居場所じゃないからなのかな、なんてことをふと思った。
自分の中で勝手に意味づけられたジンクスみたいなものだったら、それはそのうちひっぺがえしてしまえばいいんだけど、少しずつ考えながらそれをぶち壊す方法を探ってみる。
キャラクターを作っているだけだったりするんだけど。
苛立ちを感じるのも真剣にぶつかっているからこそなのかな?とか。でも不必要な苛立ちは感じたくはないかな。
あの子のおかげで私はへんてこなキャラクターを今併せ持っていられる。それはひねくれた私がする甘えの表現。自分自身よくそれはわかっている。
相手と対峙したときに、出てくる自分のキャラクターや話題。おもしろいくらいに違う。根本は一筋通っていたとしても。
徐々に慣らしていく空気。肌でなんとなくわかってくる。
最近、少しわかってきたことがある。それはもうすぐ25年生きてきたというそれだけの積み重ねかしら。