アロマ

に凝り始めている最近は定番となりつつあるアロマオイルを入れたお風呂に入る。
自分の中にあるゆずれない部分はどうも親との関係かもしれないねなんて指摘を受けつつ、ぼんやりお風呂に入っていたら、その指摘の箇所に直接関連することかはまだ分からないけれど、昔しょっちゅう言われていたことを思い出した。
私は歩くのも自転車を漕ぐのも人一倍早くて、学生時代なんかにたまに自転車を漕ぐ姿を友人に見られてはネタにされていた。時間ギリギリに行動するからという理由もあるけれど、急がなくてもいい時にもやっぱり急いで歩いてしまうのは習慣になっている。
小さい頃の私は偏食が激しくて小食だったせいもあって、ご飯を食べるのが非常に遅かった。親はしょっちゅう「ご飯を食べるのが遅い人は仕事も遅いんだ」「好き嫌いが多いのは人様の家でご飯を食べる時に失礼だ」と言ったし、何かあるにつけて「あんたはトロいんだから」「マイペースなんだから」と言った。だから自己認識に自分は早いというのがなくて、仕事にしてももっと早く出来ないかしらと常に思っている(前の仕事がかなり時間に追われる仕事だったせいもある)
そういう認識だったけれど、中学生くらいだったか他人からの客観的意見を聞くという時に「トロくなんか無い、むしろ早い」と言われて認識のズレを感じた。
そういえば両親はともにせっかちだ。
急いでいる時に、心や頭は冷静なつもりなのに体がついてこなくて、人から焦らなくていいと言われたりする。本人は焦っていないのに。
世の中に人はたくさんいて、好き嫌いが少ない人もいればものすごくはっきりしている人もいて、各々上手い具合に暮らしている。ものすごくのんびり屋な人もいればせっかちな人もいる。

最近は精神的な落ち込みはないけれど他人への評価が厳しい感じがして、他人へ一言伝えるよりも一瞬だけ断絶したいという気分が強い。争う事は嫌いだし本当の断絶を望んでいるわけではないから表立った分かりやすい形では出さないけれど。
多分他人への受容が今は小さいのだろう、そう思っている。
他人は自分の鏡。
思い返せば、自分の中の怒りの感情を表現する事がすっかり苦手になってしまった。長年の間にたくさん言いたい事をあきらめて我慢して抑えて腹の中に収めて。
それが未だに残っているから、ある時から優しくなれない。でも喧嘩も出来ない(喧嘩を出来るのはまだ健全だと思う。喧嘩にもならないほうが状態は悪い)
自分ではおぼろげにしか感じ取れないこの思いは、いつかどこかで腹の中から出して上手く処理しなければ。

自分のような葛藤や寂しい思いはして欲しく無いから、現在未来育つ子供らに愛情を注ぎたくて心理学なんかの諸問題についてずっと文献を読んだりしていて、たとえ一時期そこからずれたとしてもちゃんと愛されていたということに気付いて還ってこれるように。多分そんなことを思っていたんだ。