やっぱり

最近、能力うんぬんでなく包括的な愛、母性的な愛ということについて、頭の中にぽつぽつとキーワードが湧いてくる。
「あなたは能力がない自分は認めたくない、と出来ない自分のことを否定して自身を傷つけてきているみたいだね」と少し前に言われた。
ある程度の能力があることは必須ではないのかしら?半分分かったような分からないような。
「なんでこれくらいも出来ないの?」という言葉はきっと誰しもが幼少時から言われてきて、働いている今でも言われていることだろう。その出来ないことをただ色々な物事に変えただけで。
自分には愛される程の器はないのではないかという恐怖心が、人と接する時に構えをしてしまう癖を作り、結果的に対人関係を上手に築けないことに繋がる可能性もあるような。
人は人をコントロールしようとして、嫌な言い方をしたり、相手に罪悪感や恐怖心を植え付けようとする。
コントロールや判断からまったくもってはずれた接し方をしてもらえた時、私は初めて執着とは違う本当の意味での人と離れることの寂しさを知った。別れの涙を流さない私には珍しいことだった。
否定を受けてきた人間はまるごと包まれるような、そういう愛情を感じると非常にむずがゆがって逃げてしまうけれど、そういう愛情をもっと感じて素直に受け入れられるようになっていくこと。
生きとし生けるものすべてを愛するような、そんな大きな気持ちが必要だろうし、それに少しずつ向かえるのではないか、なんてそんなイメージがわいてきたりもする。