学生

時代の友人との北陸旅行は見所も多くて、何より好みやタイミングの似ている友人といるのは、どうかすると1人の時間が欲しくなる私にはすごく楽だった。普通の人から見たら突拍子のない私の行動の真意もその友人はよく見抜いているから。
私のワガママも聞いてもらって本当にありがたい。
また現地集合で一緒に旅行したいなぁ。

振り返れば

ひどく体調を崩すのはなんとなくだけれど1月かもしれないと、昔を振り返って思う。
睡眠不足がたたったのか年末にひどく体調を崩し(と言っても高熱が主だったけれど)、年末らしい掃除や片付けや、顔を出したかった忘年会いくつかに行くことも叶わず、年始まで布団でゴロゴロしていた。
熱には強い体質なので部屋の中を歩き回る体力はあったけれど、さすがに39〜40度近くなので最低限のことしかせずぼーっとしていた。
図書館から借りて来た本を読破することも、DVDを借りて来て映画三昧することも、カメラを持って散歩することも、個人的な頭の中の整理をすることも何もかもせずに、ただただ本当に休息をとるだけの年末年始。
それでも頂いた年賀状に写る仲間らの家族写真に思わずにっこりして返事を書き、最後の日には友人がわざわざ遊びに来てくれた、ささやかなことが嬉しいお正月。

内心

ちょっと拗ねた気分をこじらせていたところに、見事な気分転換になったのは久し振りに会った友人とのちょっとした時間だった。
随分と会っていなかったのにそんなことを全く感じなくて、色んな話を出来て楽しい時間だった。こんないい友人と繋がっていられることは幸せなこと。

弱音

を見せたり甘えたりするのはそんなに得意じゃないし、つい溜め込んだり引き受けたりしてしまうし、馴れ合いも得意じゃないのでべったりした付き合いは苦手だけれど、放っておかれている状態が好きというわけでもないし、ただどうやっていいか分からないだけ。
1人のほうが心地よいこともあるけれど、孤独が得意なわけでもなくて楽しみを誰かと共有出来たらいいけれど、本当の意味でフィットする人はそうそういない。

連絡

していたことが実らず、手間ばかり掛けさせられていることにさすがに怒りが湧いており、心がそういう状態であることも自分で分かっていて。
効率の悪過ぎることに出会うとイライラするのは私の悪い癖でもある。
そのようにイライラしている時には精神的だけでなく物理的にも視界の目線がひどく狭くなっていることに気付いた。
外の色や光を観察してみることがよい写真を撮りたいのならば大事だという言葉を目にしたからこそ余計にそのことが分かる。

多少

小難しいほうが骨があって面白いと心の底では思ってしまうのだろう。
それにしたってまた拾い上げ過ぎのような気がするこの頃。1つ1つはそんなに難しいことではないのだけれど、集中したいのに細々とした依頼が来ると気が散りがちになる。
ついつい考え過ぎてしまう私はきっと、時間との戦いの単純作業よりも頭を使う作業のほうが向いているのだろうなんてことを考えたりする。

学びたい

ことは沢山あって、本屋や図書館のコーナーを巡ればどのジャンルも面白そう。
最近はとにかく見聞を広めたい欲が強い。
時間は有限だけれど、本はすごく沢山あって、一生の間にどこまで読めるのだろうかと思うと、本当は生き方そのものすべてを大切に過ごさねばならないのだろう。
知りたいことと同時に、自分の感じていることが何なのかをもっと知りたいということと、将来の展望・計画立てと行動をしないとという気持ちがあり、各々の方向性に引っ張られて、すでに勝手に心の中で疲れている時がある。時間がなければ余計に。
そういう時に、公園でひなたぼっこをしながら本を読むと少し落ち着くのだ。

砂の魚

砂の魚

今、読書が日本人を救う―鈴木健二の「読書のすすめ」

今、読書が日本人を救う―鈴木健二の「読書のすすめ」

私は文字の習得が異様に早かった。幼稚園に上がる前に兄弟の名前の字の一部をチラシの裏に書いて練習をしていたくらい。幼稚園の頃から絵本の朗読をしていたし、漢字をはじめとした国語の授業やテストであまり苦労したことがない。
その習得の早さの一因として好奇心旺盛な末っ子だったからだと思っていたけれど、読書量も大きく影響するようで、そういえば現代文国語を特に勉強せずとも得意だったと言っていた大学時代の友人も本はかなり読むと言っていた。そして音楽好きでもあった彼女は言葉というものをすごく好んでいた。
歴史が得意なのも読書のおかげで、さらに言えば高い百科事典を所有してくれていた両親のおかげ(もっともこの作戦に見事にひっかかったのは私やせいぜい姉くらいの模様)
こんなことを思ったのは、とある人のブログに読書の効果と必要性を自身やお子さんの体験で語られていて、それに私も自分の体験とともに納得したから。
そして小学生の頃の算数の時間で先生が、基礎的な国語力がなかったら文章題の意図を読み込めず算数も解けないと言っていたし、そういった諸々の基礎的積み重ねが、働き出すと明らかに必要だと実感するから(特に事務処理の部分)
人の話を聞くだとタイミングや機嫌次第によっては上手く受け止めきれないこともあるけれど、本だと自分のペースで自分の経験したことのように思える。軽やかに書かれているエッセイなどが意外に自分にはない価値観を運んで来てくれる。それがおもしろいのだ。